粗大ゴミのご提案
記者たちは、古城園をでたベトナム人の足跡をたどり、丁寧なインタビューを続ける。
日本に残った難民の多くは、東京、大阪、神戸など大都会の零細工場地帯で働く。
似た境遇から、在留資格のない外国人労働者と間違われたりする。
また地域社会や行政の対応も、決して一様ではない。
神戸市のように二〇一名の在住ベトナム難民中、一三三名に生活保護を適用した自治体もある。
逆に、厳しい審査をおこなって、ひとりも生活保護を受けさせない自治体もある。
さらに記者たちは、オーストラリアやアメリカにまで出かけ、古城園のベトナム難民を探し求める。
彼らに会って、その体験談を聞き出す。
難民のひとりとともに、ベトナムの出身付を訪ね、故郷を捨てざるをえなかった事情も、現地で調査している。
そして、難民の自立と共生を阻む日本社会の問題点を考え、提言している。
「歩く、見る、聞く」という原則に忠実な取材態度は、民衆と民衆との交流のあり方を考える民際学(後述)のすぐれた手本でもある。
東京の巨大新聞のエリート記者が、中央官庁をはじめとする記者クラブ体制に安住しているあいだに、S新聞やK新聞のような地方紙が、足をつかって取材し、私たちに問題を投げかけてくれるのは、暗いジャーナリズムの世界に光を見る思いがする。
京都は、この前の大戦でも戦災を受けなかったほどの平和都市である、と広く信じられている。
しかし、これは事実に反する。
東山に大型爆弾が落ちたばかりでなく、近くの西陣警察署まで爆撃された。
一九四五年の春、国民学校初等科に入学する直前に、私は滋賀県北部に疎開した。
戦災の恐怖は、京都でも変わらなかったからである。
京都は、日清戦争や日露戦争以来、海外侵略に重要な役割を果たした軍国都市である。
敗戦後半世紀近い今日でも、軍都のなごりか残っている。
龍谷大学の深草キャンパスは、陸軍の練兵場跡である。
敗戦後も地名は変更されず、今日でも師団街道と第一軍道の交差点に位置している。
転職のため、二三年ぶりに京都に帰り、深草に住むことにした私は、この地名群に複雑な思いを抱いたものである。
地名もまた歴史的遺産の一部である。
みだりに変更しないほうがよい、という京都人の考えには、侵略戦争の当事者だったことを忘れないでおこうという意味なら、それなりの根拠がある。
私か住んでいるのは、第二軍道のそばである。
疎水沿いに散歩するときは、師団橋を渡る。
東山を散歩すると、日露戦争以来の陸軍墓地に出る。
留学生が借りる木造賃貸アパートでは、部屋に風呂が付いていないことが多いので、近くの「軍人湯」という銭湯に行く。
息子の通っていた小学校では、今も京都師団司令部の建物がそのまま使われている。
喉頭癌の手術のために入院していた病院は、第三軍道にある。
一九九一年七月末から八月上旬にかけて、五回めの手術のためにこの病院に入院した。
幸い。
癌細胞の転移はなく、気道切開することもなく退院できた。
退院の前の日、病院の構内を散歩した。
病院の裏に、『京都陸軍病院跡』という石碑がある。
「明治四四年六月に此の地に開設せられ、傷病将兵の収容。
治療並びに衛生部員の教育養成を担っていた……一足都陸軍病院の関係者で組織する京病会が、その名を後世に残すべく此所に記念碑を建立する」と記されている。
この病院もまた、南中国作戦、マレー作戦、レイテ作戦、インパール作戦、沖縄作戦などに参加した京都師団とつながっている。
アジアの戦場に通じているのである。
病院から退院した翌週の敗戦記念日前夜、大阪で開かれた「アジア太平洋の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む会」に出席した。
そのとき、以前に京都でお目にかかった、「台湾元日本兵及び遺族協会連合会」会長のDさんと監事のHさんに再会し、戦時中の未払い賃金や戦時預金の払い戻しを求める発言を聞いた。
初めて会うほかの海外からの証言者や、事務局で集会の準備に苦労された方々にも、紹介していただいた。
翌一五日の〇時からは、大阪で六〇〇人の参加する「心に刻む会」の集会がおこなわれた。
午前中、南方総軍が建設した泰緬鉄道(タイとミャンマーを結ぶ軍事鉄道)の憲兵隊付き陸軍通訳であったNさんが、枕木四本にひとりの割合で亡くなった、捕虜や「ロームシャ」(後述)の置かれた苛酷な労働条件について証言された。
続いて、マレーシアからロームシャとして泰緬鉄道に徴用されたSさん、台湾のTさん、韓国から三菱重工業に徴用され原爆に被災したYさんの順で証言がなされた。
旧軍人や遺族に手厚い援護の手を差しのべた日本が、半世紀後の今日まで放置していること自体、不思議に感じられるケースである。
Sさんの一人芝居は、たびたび観賞したことがある。
その力強い声の魅力もよく知っている。
でも、この日の朗読は、とりわけ感動的であった。
この詩を耳にできただけでも、二日間かけてこの集会に参加した価値かある。
あの素晴らしい声のSさんが、舞台の激しい躍動に耐える身体を鍛えていたSさんが、私よりも先に癌で逝去されるとは、そのときまったく想像もできなかった。
午後は「戦前と戦後のはざまに」という題のシンポジウムがおこなわれ、私もパネラーとして発言した。
与えられた二〇分間で、次のような主張をした。
「人管は、ブラジルやペルーから来た元日本人の子や孫に、日本で自由に働く資格を与えている。
ならば、朝鮮半島や台湾に住む人びともまたかつて天皇の赤子として一視同仁である戦後補償を求める提訴をおこなったと公言したからには、日系ブラジル人と同様の在留資格を認めるべきである。
また、日本軍の占領行政によって、日本語を強要され、軍票を強要され、塗炭の苦しみを嘗めた人たちにも、他の外国人一般とは異なる優遇措置を設けるべきである」と。
が、うまく表現できたとは思えない。
このシンポジウムでは、在日韓国人の傷痍軍人であるTさんのアピールが、強い共感の拍手で迎えられた。
済州島に生まれたTさんは、海軍の軍属として徴用され、一九四三年一月、マーシャル諸島の戦線で右腕を切断する重傷を負い、その治療中に敗戦をむかえた。
戦後の日本政府は、一方的にTさんの国籍を奪ったうえ、「日本国民ではない」として、戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用していない。
一九九一年になってから、大阪地方裁判所への提訴に踏み切ったTさんは、私たち日本人に責任のある生き方を問いかけているのである。
Tさんに続いて、京都府在住のEさんが、一九九二年一一月「帝国陸軍の一等兵として長年シベリアに抑留されていたので、同じ収容所にいた仲間の軍人のように恩給の支給を受けたい」と主張して、戦後補償を求める訴訟を京都地方裁判所に起こされた。
その話をK弁護士から聞いて、Eさんに会ってみたいという気持ちと、無力な私では何もお役にたてそうにないから、ご迷惑をかけるばかりだという気持ちが相半ばしていた。
力もないのに多くの仕事を抱え込んだ病人の出る幕ではないと自戒していた。
それでも、Kさんにさそわれて、一九九三年七月一五日にK弁護士会館で、Eさんに初めてお目にかかった。
支援する人たちがEさんと呼びかけられるのに対して、Eさんは口ごもりながらも、Kという日本名で応答されていた。
Eさんは七〇年近い生涯を、本名のEであるよりも、Kとして長く生きてこられたからに違いない。
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